遐想胡琴
-かそうこきん-

 

京………平安の都。
東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武を配し、悠久の安寧を願って作られた都。
だがその裏の名称がある。
魔都。
悪鬼や怨霊が跋扈する魔都。
その都に仇なさんとする鬼の一族が現われたのは平安遷都直後のことであった。
鬼の一族とはこの日の本に漂着した異国人を先祖に持つ者たちのことである。
都人たちと鬼の一族は互いに反目し合い、蔑みあった。

 







その記憶は既に過去のもの。
今では鬼の一族は消滅し、語りで囁かれるのみ。
そう………時間は刻々と過ぎてゆく

 





 ビィイィィイン……

 満月が輝く夜、どこからともなく楽(がく)の音(ね)が聞こえてきた。
 ここは左京・四条の屋敷。
 その簀子縁で男が独り、琵琶を手に音(ね)を一音一音確かめるように弾いている。
 調べは秋の涼しい風に乗り、夜空へと散ってゆく。
 静かに……静かに……音が奏でられ、夜空へと散ってゆく。

 カタン…

 物音がして、男は琵琶を弾くのをやめて、音のした方を振り返った。
 御簾を降ろしているので、その内部を窺い知ることはできない。
 だが、音はその御簾内から聞こえてきたのだ。
「姫君。そのようなところで何をしておいでだね」
 気配が自分の背後にあるのに気付き、声をかけた。
 御簾越しに感じる、温かな気配。
 姫君と呼ばれた気配は、一瞬ビクッとその身を竦ませたが、何事もなかったかのようにその場にとどまった。
 再び男は琵琶を弾き始める。
 ゆったりと……そして次第に速くなっていく曲調。
 細くて長い、それでいて大きい男の指が滑らかに動き、幻想的な曲を紡ぎだす。
「………その曲…」
 御簾内から洩れ出る声。
「懐かしいですね」
「そうかね」
 いつの間にか、簀子縁へと出てきていた単衣に袿だけを纏った姿の華奢な女性。
 名をあかね。
 そして、琵琶を弾く男の名は橘友雅。
「アクラムと戦っていたときに一度だけ聴かせてもらった曲……それですよ」
「…………」
「ねえ、友雅さん」
 その広い背中にもたれながら、あかねは声をかける。
「琵琶って聴くのはいいですけど、いざ弾いてみると難しいんですよね」
「そうだね」
 言い置いて、ハタと気付く。
 肩越しに振り返り、ニッコリと微笑んだ。
「私が琵琶を弾くきっかけとなった話でも聞きたいのだろう」
「あ、わかりました?」
 クスクスと苦笑を漏らす。
「駄目……ですか?」
「誰も駄目とは言ってはいない。だが、笑い話になるのだが」
 と琵琶を縁に置き、夜空を見上げた。
「そうだねえ。あれは私がまだ宮仕えを始めた頃だったか」
 思い出すように、目を閉じる――――――





 今からもう十五年ほど前になるだろうか。
 当時の帝は現帝の父であった。
 友雅はというと………
「……本当にこの屋敷でよろしいので?」
 上司である近衛少将に連れてこられた屋敷前で牛車を降りた、少年を少しばかり脱した顔立ちの青年が尋ねた。
 青年は先ごろ宮仕えをし始めたばかりで、その初々しさが残る。
 しかも元服の儀も少し前に終えたばかりだという。
 時期が遅いのも、その青年の家が落ちぶれていたからだとも考えられる。
 さて、今日は上司の少将から琵琶を習ってみてはいかがかという言葉に従い、とある屋敷まできていたのだ。
 雅楽寮頭・紀義之。
 そう。現在では息子の紀成之がその職を引き継いでいる。
 紀成之は友雅の友。
 だが、この時点では二人はまだ出会ってはいない。
 上司である少将がこの屋敷へと連れてこなければ、二人は出会うことはなかっただろう。
 それはともかく。
「私の師である義之殿がお前を呼んで来いと、ね。宮中の女性の噂の的であるお前を一目見たいそうだ」
「私は男色の気などありません」
 きっぱりと断り、踵を返そうとする。
 が、それを黙って見送ることなどこの上司の辞書にはなかった。
 呼び止め、こう言う。
「宮中の女房達から騒がれる橘友雅ともあろう者が、敵前逃亡を図るのかな」
「敵前逃亡……? あなたの目的は私に琵琶を習わせることでしょう。それと宮中の女房と何の関係が―――――」
「甘いねえ、友雅」
 チッチッチ、と人差し指を顔の前で振ってみせる。
「楽(がく)は貴族の嗜みなのだよ。それに楽が上達すればおのずと……」
「女性にもてる」
 きっぱりとはっきりと述べる。
「我が屋敷の前で何をしていらっしゃるのですか」
 突然、四足門の中から声がした。
 振り返ると、そこには狩衣と烏帽子というラフなスタイルで立つ青年の姿があった。
「藤原少将様ですね。先ほどから父がお待ちです。さ、中へどうぞ」
 牛車が再び動き出し、四足門内へと入っていく。
 それに従うように、友雅も足を踏み入れる。
 ちらりと狩衣の青年が友雅を盗み見た。
 噂には聞いたことがあった。
 近衛府には宮中の女房達に評判がいい男がいる、と。
 恐らくあれがそうなんだ、と思った。
「…………何か?」
 視線を感じ、顔を上げた友雅が問う。
 顔が整いすぎている。
 これは女性が放っておくはずもない。
「あんたが近衛府の橘友雅…?」
 途端、友雅の眉が寄せられる。
 無理もない。
 突然、名前も顔も知らぬ男がじろじろと舐めるような視線を感じたからだ。
「私はこの屋敷の主である紀義之の息子・成之。あんたの噂は父から常々聞いている」
 噂。
 その言葉に、ますます友雅の眉が寄せられた。
 自分が耳にする噂は、その殆どが尾ひれや胸びれなどがついたものばかりで、ろくなものなどなかったからだ。
「女性方が噂をするはずだ」
 成之の最初の印象はこうだった。
 自分が嫌う部類の輩。
 だが、その父親に琵琶を指南していただくのだ。
 ここはひとつ我慢しなければならない。
 そして友雅は結局、この屋敷に通うことになった。






 月日は瞬く間に過ぎ去り、二年の歳月を経た。
 友雅は相も変わらず、雅楽寮頭・紀義之邸を訪れ続けていた。
 いや琵琶の稽古ではなく、その息子である成之の招きによるものだ。
 その頃の二人は以前のようなわだかまりはなく、すっかり打ち解けていた。
 時々互いに招いては琵琶をあわせたりする。
 この日は成之が友雅を自邸に招いていた。
 琵琶の音色が空へと散る。
 二つの琵琶が見事なハーモニーを奏でながら散っていくのだ。
 その音色を聴くのは、屋敷に住まう者たちと近辺を通りがかった者、そして庭の草木や池の生物だけだろう。
 聴く者をうっとりとさせる音色はこの二人しか奏でることができない。
 頂点を極めたといっても過言ではない。
「友雅」
 一曲を弾き終えて、成之が声を掛けた。
 琵琶から顔を上げた友雅はゆっくりと視線を成之に移す。
「今日はやけに苛立っているな。何かあったのか?」
 微妙な変化も聞き逃さないのは流石というべきか。
 いや、成之は雅楽寮頭の子息。
 できて当たり前だろう。
 面と向かって問われ、一瞬驚いた表情をしたが、深く溜息をつく。
「嫌な奴に出会った」
「………お前の嫌な奴から推測すると…………ヤツか」
 どうやら成之は友雅が言っている者のことを知っているようだ。
 ヤツと呼ばれた男は、藤原一門の下級に位置し、友雅とは同僚であった。
 いつも狐のような目で辺りを窺っているような仕草をするので、通称”マロ狐”と呼ばれている。
 マロというのは藤原一門の、特に上級貴族たちが使う言葉からきている。
 これを名づけたのは友雅の同僚たちであった。
 友雅の同僚には藤原氏以外の者が大多数に上っている。
 その殆どが、数百年も前に政権闘争に負けた氏族の子孫たちである。
「ヤツが最近、私を敵視しはじめた」
 それを聞いて、成之はやっぱりと思った。
 それでなくとも友雅は人目を引きやすい。
 マロ狐が敵視するのも無理はない。
「で、お前は?」
「完全無視。今もどこかで私と成之の話を盗み聞きしているのではないかな」
「…………そうか」
 マロ狐も大変な男を敵視したもんだ、と心の中で溜息を吐く。
 早く諦めてくれればいいものを……。
「ご苦労なことだ」
 外は冷えるというのに。
 間を開け、庭先からくしゃみが聞こえてきた。
 二人は顔を見合わせ、声を殺して笑う。
 やはり来ていた。
「ヤツがお前の後を付回す理由は一つしかないだろう」
 と、人差し指を友雅の目の前に差し出した成之。
 ずばり。
「お前が何故、モテまくるかだ」
「そう言われても自覚はないのだがねえ」
「無自覚ほど恐ろしいものはないぞ」
 それはごもっともなご意見である。
「さて、もう一曲あわせるか」
 横に置いていた琵琶を膝に乗せると、再び撥を弦に添わせ、かき鳴らす。
「ヤツには風邪をひいて数日間ほど休んでもらいたいからな」

 




「まあ、そういうことだ」
「紀成之さんって……前に屋敷にいらっしゃった、あの方ですよね」
 思い出したかのように口を開くのはあかね。
 友雅は軽く頷いて見せた。
「じゃあ”マロ狐”って誰のことなんですか?」
 真面目な表情をしてそう尋ねるあかねであったが、友雅は笑いを堪えられなかった。
 思わず笑いが洩れた。
「なっっ、何がおかしいんですか??!」
「………すまない」
 涙目になりながらも謝ろうとするが、それは無意味に等しい。
 頬を膨らませ、そっぽを向いてしまった。
「私が悪かった。だから機嫌を直しておくれ」
「駄目です!!!!」
 あかねは一度機嫌を損ねると、復帰させるのは至難の業なのである。
 だが友雅は何度も機嫌を損ねさせていた。
 よくもまあこうも繰り返して飽きないことだろう。
 これは賞賛に値する。
「わかった」
 お手上げ状態の友雅。
 そっぽを向いたままのあかねの耳に顔をそっと寄せ、こう囁く。
「あかね………愛しているよ」
 究極の殺し文句。
 いや、これは究極の落とし文句と呼んだ方が正解だろう。
 その言葉はもはや究極の域に達している。
 流石は落とし専門の友雅。
 あかねはその言葉に背筋にぞくっとしたものを感じ、身を震わせた。
 寒気や悪寒の類ではない。
 むしろ頭の芯を溶かされるような、そんな心地良い類のものだ。
 ゆっくりと手が背後から回され、抱きしめられる。
「君だけが私の情熱だ。……だからそのような顔をしないでおくれ」
「……………………」
 首の辺りに吐息を感じる。
 続いて、首筋に温かいものが当てられた。
 きつく吸われ、思わず声を漏らす。
「……あっ………」
 恥じらい、その腕から逃れようとするが無駄な努力であった。
 これが年の差。
 もしくは、経験の差であろう。
「友雅さん……やめて…」
 声が続かない。
 身をよじらせてその腕から逃れようとする。
 それを友雅は宥めるべく行動を起こした。
 強引にあかねの顔をこちらに向けさせ、唇を奪ったのだ。
 唐突であった。
 だからあかねはただ呆然とするしかない。
「いい子だね」
 急に大人しくなってしまったあかねの頭を軽く撫でながら友雅が笑みを浮かべてみせる。
「さて」
 へたりこんでしまったあかねを抱きかかえ立ち上がった。
「今夜も夜明けまで寝させてあげないから覚悟しなさい」
「え??」
 何を言っているのかわからず、ほうけた顔であかねが訊き返した。
 だが、その後は何も返ってこない。
 代わりに額に軽く口付けを落とされる。
「君は私だけのものだ。誰にも渡さないよ」
 あかねに聞こえないくらいの声で、そう囁くのであった――――――――





 残された琵琶は、月の光に照らされて鈍く光を放つ。
 そして緩く吹いてきた風に、その身を震わせる。
 風が奏でる詩。
 それは二人のそれまでの道。
 今の道。
 これからの道。
 明るい道を歩む二人に投げかけるような、そんな詩を琵琶は奏でる。
 いつまでも――――――

 





2002年12月3日  製作

2002©水野十子/白泉社/KOEI/ 沖継誠馬






コメント 

 琵琶を題材にした物語だけあり、ゆったりとした文章の間が心地良かったです。
 転じて、後半の大人な展開には…いや〜参りました
(-人-;)
 しかし雅ですなぁ…



  







|||背景素材「春宵楼郭」様|||