「薔薇色の人生」 こつ、こつと深沓が敷石を踏む音が響く。 さわさわと小梢が風に揺らめく音がする。 郭公の歌がひと際大きく聴こえる静かな水辺。 本当にここは京の存亡をかけて鬼と戦った場所なのであろうか? 長く続いた鬼との戦いを終らせたのは、ほんの昨日のことではなかったのか? あれは夢だったのだろうか? いや、夢のはずがない。 あれは確かな現実であった。 戦いの経緯を報告するために参内した帰り道に、そんなことを考える自分はどうかしている。 友雅は軽く頭を振った。 夏の盛りを迎えようとする京の暑さが思考を低下させたのだろうか? 帝ならびに公卿の方々に拝謁するとあっては、流石の友雅も緋色の袍を身に纏い、常はとき流している髪を結い上げて巻纓の冠をつけた最正装である束帯姿にならざるを得なかった。 この暑苦しい姿こそ、鬼との戦いが終った何よりの証拠ではないか。 友雅は、髻(もとどり)から簪(かんざし)を抜き取り、顎にかけられた紐をはずして髪を解きほぐした。 高くて窮屈な襟の蜻蛉から受緒をはずして襟をくつろげると、ようやく呼吸が楽に出来るような気がする。 全く、形式が好きな方々に合わせるということにいくら年を重ねても慣れないというのは、我ながら困ったものだ。 鬼との戦いの憂いが無くなった以上、これから始まる権力闘争に公卿の方々は再び明け暮れていくのだろう。 友雅の報告を受けて、安堵の溜息とともに次の権謀術数へと頭を切り替える方々の逞しさに、些かの感嘆すら覚えざるを得ない。 それにしても、内裏の高き身分の方々の顔ぶれは随分と変った。 鬼の呪詛を、撒かれた穢れを、疫病を受けて死んでいったものは多い。 身分の高き低きにかかわらす京の人間に平等に死は訪れたのだ。 死によって打ち捨てられた家屋、耕されぬ土地。 すでに仕事が滞り始めている内裏の八省。 混乱に乗じて収められなかった税のため深刻化する財源不足。 都を荒らす盗賊、追いはぎの横行。 それを止めることができないほどに弱体化した検非違使、京職。 これで平和が戻ったなどと浮かれるほどと友雅は馬鹿ではない。 これからが京という都が立ち直れるかどうかというときなのだ。 鬼と言う姿の見える恐怖のほうがよほど理解しやすい。 不安や貧困は都を知らず知らずのうちに京を蝕んでいくのだろう。 それが見える自分は鬼よりもなお異形なのではないだろうか? 友雅は苦い笑いを浮かべた。 どうしても気が塞ぐことが止めることができない。 内裏への報告が済めばすぐに土御門に行くと約束したのは自分なのに、すぐに行くという気持ちになれなかった。 なかなか訪れない自分に龍の姫君は怒るだろうか? それとも心配するだろうか? 大きな瞳で心配そうに自分を見上げるのは姫君の愛らしい癖のひとつだ。 「愛しい姫君。」 今まで数限りなく囁いてきた言葉であるのに、かの人の姿を思い浮かべるだけで全く違う言葉であるような気がする。 言霊には確かに力があるらしい。 先刻までの気鬱に変わり、彼の姫君へのいとおしさが胸に満ちる。 いとしいという言葉では言い表せないほどいとしい姫君。 彼の人が自分の全てであったと気がついたのは、間抜けにも彼の人が龍神にその身を捧げた時だった。 笑顔すら浮かべて祈る彼の人の姿が空へと消えていくあの恐ろしい瞬間。 生まれて初めて味わった恐怖の感情。 そして何も出来ない自分への絶望。 ただ祈るしか出来なかったあの時間。 彼の人が存在してくれるなら何もいらない。 彼の人が幸福に微笑んでくれるなら、その傍らに自分などいなくてもかまいはしない。 それ以外は決して望まない。 後で聞くと、自分は彼の人を呼び止めようと声を限りに叫んでいたらしい。 思い出すだけで胸が苦しい。 あのときのように友雅は空を仰いだ。 澄み渡った青い空が目に映る。 龍神にその身を捧げた姫君が、再び自分の元に戻ってきてくれた昨日の空と同じ色だ。 空から自分の元に真っ直ぐに降りてきた小さな姫君。 君が必要だと言った自分に、彼の人は柔らかく微笑んだ。 『友雅さんの傍にいたいです。 だから、この世界に残ってもいいですか?』 それだけ言って、気を失うように眠りについた姫君。 その時の感情をどう表現してよいのか分からない。 最初に感じたのは歓喜。 信じられないほどの幸福感。 そして次に感じたのは不安。 足元にぽっかりと大きな穴が空いたような得体の知れない恐怖。 この世界は、君が命を捧げるのに相応しいほどの世界ではない。 自分は君が思ってくれるような男ではない。 どちらもうわべを取り繕っただけの醜い存在だ。 それでも残ってくれるというのだろうか? この人は自分に応えてくれた。 しかし、自分の守った京の醜さを、自分の空ろを知られたら? 恐らく、この人の柔らかい心は引き裂かれるのだろう。 本当にこれで良かったのだろうか? 彼の人の幸福以外には何も望まないと誓ったのは自分であったのに。 それでも自分は浅ましいまでに彼の人を欲している。 空の青さが胸に沁みるようだ。 友雅は目を閉じた。 と、そのとき、 「友雅さん!」 ふいに大きな声が友雅の鼓膜を震わせた。 それは確かに神子殿の声。 驚いて振り返れば、水干姿の彼の人が笑いながら手を振る姿が目に映る。 姫君は友雅の傍らに駆け寄って、にっこりと嬉しそうに笑った。 「ここにいるって、思いませんでしたけど、会えて嬉しいです。 友雅さんも私と同じ理由でここに来たんですか?」 「いや、私は内裏の帰り道に涼みに来ただけだからね。 多分、君が来た理由とは違うと思うけれど。」 答えながら、ふと考えてしまう。 この人は、やはり自分の世界に帰りたいと龍神に願いに来たのではないだろうか? いや、そうであれば自分にこのように明るい笑顔を見せるはずがない。 すぐに分かりそうなことなのに、そんなことを考える自分はどうかしている。 友雅の苦笑を姫君は別の意味に捉えたようだ。 姫君は頬を膨らませた。 「友雅さん、笑ってはだめです! 私は龍神様に感謝しようと思ってここに来たんですから!」 「感謝?」 意外な言葉に聞き返してしまった友雅に姫君は胸を張った。 「そうです。だって私はすぐに気を失ってしまったから、ちゃんとお礼を言えなかったんですもの。 だから今日、お礼を言おうって思ったんです。」 むしろお礼を言わなくてはいけないのは龍神の方だろう。 異界から召喚された京とは何の関わりも無い姫君が、四神を開放し、京を救ってくれたのだ。 「君がお礼を?」 「そうです、龍神様が京を救ってくれたんですもん。 それに私がここに、友雅さんの傍に残ってもいいって許してくれたお礼を言いたかったんです。」 友雅は微笑した。 この人にそのような祈りを捧げていただけるほど自分も京も価値があるものではない。 「確かに私がここにいることに君と同じ理由があって当然だったね。 私はこの京の人間だから君よりもお礼を言わなくてはいけない。 それに君に残って欲しいと懇願したことを忘れたなどと思わないでいただきたいから。」 かあっと、姫君の顔がみるみる赤く染まる。 「ち、違いますよ、そんな意味で言ったんじゃないです!」 慌てて否定する姫君が愛らしい。 友雅はそっと姫君の白い両手を自分の両手で包んだ。 「分かっているよ、私の白雪。 けれど君がここに居てくれることは私の生きてきた中で一番の寿ぎなのだよ。 君がここに残ってくださったということは、私が君を欲する気持ちを君に受け入れていただけたのだと。 そう自惚れてもかまわないだろうか?」 そして、その桜色の爪にそっと唇を寄せる。 愛しい姫君。 君の幸せを願いながらも、君を欲する心をとめることが出来ない。 「そして姫、もしそうであるならば、今ひとつ、私の願いを聞き入れて欲しいのだよ。」 聞き入れてくれるなら、自分の全てを捧げるから。 だから、君を欲することを許して欲しい。 「私の妻になっていただけないだろうか?」 緊張で声が震えるのが分かる。 姫が息を飲む音が大きく鼓膜に響いた。 そして、一瞬の沈黙。 この沈黙の意味するところはなんなのだろう? 戸惑いだろうか? 否定だろうか? この人は自分の熱情など欲していないのかもしれない。 そうであるならば冗談にしいてしまおう。 それでもかまわない。 そう思って顔を上げれば、姫君の真っ赤な顔が目に映る。 「と、友雅さん、私、私、友雅さんのお嫁さんにしてもらってもいいんですか?」 「早いと言われるなら待つよ。 希望があれば待つことは苦ではないからね。」 友雅の言葉に、姫君はぶんぶんと音が出るほど首を横に振った。 「ち、違います! 私、私、まだ子供だし、庶民だし、胸も小さいし、歌も音曲も出来なくて、友雅さんを喜ばせてあげることなんて何にもできないもの! そ、それでもお嫁さんにしてくれるんですか?」 この人の言葉は、宝玉が煌きながら胸に滑り落ちていくようだ。 この人といるだけで世界は輝き、喜びに満ちる。 これ以上、自分に何をくれるというのだろう? 友雅は花が開くような美しい笑いを浮かべた。 「歌や音曲はゆっくり覚えたらいい。 庶民だって私には関係ないよ。 それに胸のほうは時と私が解決できる問題だから、協力することはやぶさかではないけれど?」 「と、友雅さんは解決に協力しなくてもいいです!」 悲鳴のような声で姫君は叫んだ。 愛らしいその様子に思わず友雅は声を上げて笑ってしまう。 「友雅さん、私をからかってばかりいては嫌です!」 「では、妻問いへのお返事をいただけますか?」 微笑んではいたが、友雅は自分の内の熱が胸を焦がすという想いを味わっていた。 その熱が伝わったのだろうか? 姫君は指先まで赤くなってしまった。 「わ、私、頑張ります。 今すぐは無理でも、ちゃんと友雅さんの奥さんに相応しい大人の女性になりますから。 だから、だから、私を嫌いにならないで下さいね? 私、私、友雅さんの立派な奥さんにきっとなりますから!」 「ああ、楽しみにしているよ。」 またこの人に嘘をつく。 この人が、相応しくなることは無いだろう。 友雅は笑みが深くなることを抑えられない。 この人のひたむきさ、心の柔らかさ、温かさ、そして強さ。 この人が自分のような男に相応しく、堕ちることは無い。 清浄なる月の姫。 この人が地上に残ってくださるならば、自分のもとにいてくれるなら。 この世の醜さも、自分の虚ろもこの人に知らせまい。 この人がなしたことで、世界が平和になったのだと偽ろう。 都は活気を取り戻すだろう。 盗賊は減り、人々は職と食に不自由なく過ごす。 内裏は平和に政治を行い、土御門は栄えるだろう。 そうして世界を嘘で固めよう。 そのためなら何でもしよう。 自分が軽蔑してきた権力争いを操り、己がもてる全てを利用しよう。 それでも、 「君一人が私の情熱だ。 君に私の全てを捧げさせておくれ。」 その言葉だけは真実。 そっと抱き寄せた、腕の中の小さな姫君。 そのぬくもりだけが真実。 それは鬼との戦いの翌日。 神泉苑での小さな出来事。 後にこの日が友雅の誕生日であったと知り、翌年こそはきちんとお祝いすると誓ったあかねに、 「君が残って私の妻になると承諾してくださった。 このこと以上の寿ぎはないよ。」 そう友雅が告げたのは後の話。 そして次の年に多忙を極める友雅にちゃんとお祝いできたかは、また別の話で語られる。 了 |
2003©水野十子/白泉社/KOEI/ 草原遼
友雅さん誕生日祝いフリー創作を頂戴してまいりました。 行政面までをも盛り込んだ深い話・・・と思いきや、読み進んでみれば、友雅さんの疑心暗鬼な心と、透き通ったあかねちゃんの心の対比の美しさに辿り着いた。 あかねちゃんを許すにあたり、「この人」という人称を使っている点が、友雅さんの理性・客観視した部分として印象的でした。 感情部と理性部の書き分けと云ったところでしょうか…。 |
背景:咲維亜作