「可愛いひと」 朝の光を柔らかく瞼に感じる。 腕の中に確かにある温もり。 微かに聞こえる規則的な息の音。 それだけのことがこれほど心地良いのは何故だろう。 目を開けば、まだあどけなさを残す彼の白菊の寝顔。 あれほど艶めいた表情をして彼を駆り立てた姫君は何処へ行ったのだろう? 朝の光に溶けてしまったのだろうか? 単からのぞく胸元、首筋に散る花びらのような跡だけが昨夜の名残り。 指先で花梨のふっくらとした唇をなぞってみる。 「可愛い人。」 囁くように翡翠は呟いた。 重たげに花梨の睫毛が動き、夢見るように大きな瞳が開かれる。 まだ焦点の合わない目を擦り、花梨はうんと伸びをした。 そして、自分を見つめる翡翠に気づくと、そこだけが日が差したように明るい笑顔を浮かべた。 「おはよう、翡翠さん。」 元気に起き上がろうとする花梨の手を翡翠は軽く掴み、自分の胸元に引き寄せた。 「まだ起きる時間ではないよ、可愛い人。」 花梨が抗議する前に、翡翠はその唇を自分の唇で塞ぐ。 深く舌を絡め、歯列をなぞり、口腔内を存分に味わう。 くぐもった声に快楽が混じり、その先の快楽を求めて花梨の肌がほんのり桜色を帯びる。 その反応に満足し、翡翠はその手を単の袷から差し入れ、まだ薄い花梨の胸を探った。 が、その途端、花梨は短い悲鳴を上げた。 「ひ、翡翠さん!朝から何してるんですか!」 「君が可愛いのだから仕方ないじゃないか。」 言いながらも翡翠の手は巧みに花梨の胸を愛撫する。 翡翠に導かれ、体の奥からこみ上げる快楽に花梨の口から吐息が漏れた。 「可愛い私の白菊。」 夢見るように囁く声。 それだけで花梨の体の内側から甘い痺れるような確かな快楽が生まれる。 しかし、花梨はきっと翡翠を睨んだ。 「もう、だめです、翡翠さん! 今日は朝から荷物の積み込みの打ち合わせがあるんでしょ!」 そんなことはすっかり忘れていた翡翠だった。 「部下に任せれば済む話だから心配いらないよ。 私が嘘をついたことがあったかい?」 艶やかな微笑を浮かべる翡翠を花梨は冷たい目で睨んだ。 「前もそういってお仕事をサボったら、あとで翡翠さんがいないから話にならなかったって聞きましたよ。」 翡翠の形の良い眉が顰められた。 「それ、誰が言ったんだい?」 「言ったらその人が絞められるから言わない。」 さすがに翡翠の行動パターンを読んでいるようだ。 が、今まで翡翠に溺れない女性はいなかった。 これだけ心を込めて、誠心誠意でお仕えしているのに、部下の方を心配するのは面白い話ではない。 すっと翡翠は花梨から手を引くと、くるりと背を向けて寝た。 「翡翠さん?」 不審そうな花梨の声が背中に聞こえる。 「もうすぐ私が航海に出るのに君は淋しくないのだね。 私は君といる時間は一時でも惜しいのに、つれない姫君だ。」 自分でも分かるほど不機嫌な声になる。 「もう翡翠さんってば、いい大人なのに拗ねないで下さい。」 花梨は困惑したように翡翠の背中に話しかけた。 翡翠は答えるのも厭だと押し黙る。 自分でも大人気ないとは思う。 しかし花梨に関しては、自分でも持て余すほどの独占欲を止めることができない。 花梨のすべてが自分に向けられないと腹立たしい。 一時でも離したくない。 抱きしめて、包み込んで一生このままで居たいと愚かにも思ってしまう。 そうなった時に、海に呼ばれて堪らなくなるのは自分なのに。 「翡翠さん、もう起きてください! 朝ごはん用意しますから。ほら、きっとみんな待ってますよ!」 花梨が部下に耳を傾けることさえ苛立ちを感じる。 「…私のすべては君に盗られてしまった。」 「…翡翠さん…?」 「己の矜持さえもすべて君に捧げた。 それを後悔はしていない。 けれど君は私だけのものにはなることはない。」 翡翠は未だ鎖骨の間に埋め込まれた宝珠を指で押さえた。 妻としてなお花梨は龍神の神子であり、翡翠だけのものにならない証のようなその宝珠。 かつてはそれに花梨との絆を感じていたのに、今では抉り取ってしまいたいほどの疎ましさを感じる。 「君のすべてが欲しくて気が狂いそうだ。」 吐き出すようにそれだけ口にする。 と、ふわりと背中に温もりを感じた。 花梨の暖かで小さな体が背に押し当てられ、その細く華奢な腕が柔らかく翡翠を抱いた。 「翡翠さん、翡翠さんってかなり困った人ですよ。」 「…君に関することは自分でも持て余しているよ。」 正直に答えると花梨は笑った。 「翡翠さんは私を『可愛い人』って呼ぶけれど、私には翡翠さんの方が『可愛い人』に思えます。」 翡翠は生まれてこのかた幼いときにさえ『可愛い』など言われたことなどなかった。 少し驚いて振り返ると、花梨は寛大に微笑んだ。 「翡翠さん、頑張ってお仕事してきてください。 本当は航海になんていってほしくないし、そばにいて欲しいです。 でも私は翡翠さんを待ってます。 だって翡翠さんが一番好きなんですもん。 どんなにしょうもない我侭を言っても、拗ねても、それでも翡翠さんが一番好きです。」 何の飾りも計算も花梨の言葉にはない。 けれど花梨の言葉はいつも翡翠の胸の奥に沁みていく。 翡翠は潔く降参し、微笑した。 「まじめに仕事をするとなにかご褒美はいただけるのかな?」 「お夕飯は翡翠さんの好きなものを食べさせてあげます。」 きっぱりと言う花梨に翡翠は爆笑してしまった。 「いいよ、可愛い人。 では君をご馳走してもらおう。 さぞ美味い蜜なのだろうねぇ。」 音が聞こえそうな勢いで花梨の顔が朱に染まった。 「ひ、ひ、翡翠さん!」 叫ぶように名前を呼ばれて睨まれる。 そんな仕草さえも可愛くていとしい彼の姫君。 狂気のような恋を教え、見苦しいまでの執着を教える姫君。 けれどこの人は翡翠を太陽のように照らし、北辰のように導く。 翡翠はいつまでたっても、この人に敵わないのだろう。 確かにこの人から見れば自分はしょうもない『可愛いひと』に違いない。 了 |
2003©水野十子/白泉社/KOEI/ 草原遼
翡翠さん誕生日祝いフリー創作を頂戴してまいりました。 大人気ない翡翠さんが可笑しい〜!!! 花梨ちゃんにかかると、本当に「可愛い人」になってしまうんですね〜。 そんなところに、飾っていない二人の関係を感じて憧れます! |
背景:咲維亜作