「京の文化事情 その六  財政事情編」




少し考えてみれば、それは当然予測できてしかるべきことであった。
左大臣が新たな邸を造営すると聞きつけた目端の利く受領たちがどう行動するかなど、予測しておくべきことであったのだが…。



新年を迎える少し前から、土御門の屋敷はいつもにまして訪れる受領たちで賑やかであった。
そして彼らの持参する手土産は、庶民たちが一生かかっても手に入れられないような高価なものばかり。
詩紋は、それの整理に忙しいらしく、お菓子の差し入れがないのが少し淋しい。
「ですから今日のおやつは、干し柿ですの。
神子様のお口に合うとよろしいのですけれど。」
藤姫の後ろから現れた女房が、繊細な蒔絵で彩られた高杯に盛った干し柿をあかねの前に差し出した。
干し柿をおばあちゃんのお菓子と馬鹿にしてはいけない。
甘味が乏しい平安期では贅沢品になるお菓子なのだ。
それに、ここの干し柿は、現代で手に入るよりも甘さが上品で美味しい。
「ううん、干し柿って美味しいもの。
一緒に食べようね。」
にこにことあかねは、笑ってそういった。
「はい、神子様。」
にっこり笑う藤姫を見て、本当に綺麗になったなと、あかねは見とれてしまう。
思春期を迎えた藤姫は、最初見たときには幼すぎて痛々しい感じもあった女房装束も、今ではすっかり似合うお年頃。
今日は寛いだ紅梅襲の小袿姿だが、若々しいその色目が映えて、目を奪うほどの華やかな美貌を際立たせている。
本当に昔から愛らしい少女だったけれど、「美少女コンテストが無いのが惜しいぜ」という天真の意見に全面的に賛成してしまうくらい綺麗になった。
もう少しすれば、きっと結婚の話とかもでるのだろう。
いや、気の早い公達からの文がかなり来ているというから、結婚はそう遠い話ではないのかもしれない。
「あの、神子様、私の顔に何かついていますか?」
首を傾げると、髪飾りがしゃらりと綺麗な音を奏でる。
ほうと、あかねは思わずため息をついてしまった。
「ううん、ごめんね、藤ちゃん。
あのね、藤姫ちゃんて本当に美人だなって思っていたの。」
素直な褒め言葉に藤姫は真っ赤になった。
「神子様に褒めていただけて嬉しいです。
そうそう、友雅殿がこちらに越してくる前に、調度を新しくしてはと父に勧められていますの。
ぜひ、そうさせていただきたいと言っているものも多いと聞いていますわ。
それに新しいものでお迎えしたほうが友雅殿も嬉しいはずですもの。
絶対にそうしましょう、神子様。」
改装するという結論は、すでに藤姫の中ではできていたらしい。
「で、でも、友雅さんはきっとそのままでいいって言うし、衣更えでもないのに調度を変えるなんて勿体無いよ。」
「いいえ、変えましょう。
古めかしいままでお迎えしたと陰で囁かれては、神子様だけでなく、藤原家、ひいては友雅殿の評判にもかかわりますわ。」
きっぱりと藤姫は言い切った。
もちろん、神子様以外の評判はどうでもいい藤姫であったが、こう言った方が、あかねが折れてくれることは十分に学習済みである。
「う、うん。そ、それならお任せしようかな。
で、でも全部変えることは無いんだよ。
ね、そうだよね、藤姫。」
「ええ、お任せください。すべてこの藤が取り計らいますわ。」
あかねちゃんの言葉の前半しか聞いていないだろう。
そう突っ込む人間は、幸か不幸かここには存在しなかった。
そして西の対屋の全面改装がこのとき決定したのだが、そのことをあかねは気づいてはいなかった。




「成功(じょうごう)ですね。」
鷹通の苦りきった表情を見て、友雅はくすりと笑った。
自分と同様に幼いころから、内裏という魑魅魍魎が闊歩する世界で生きてきたくせに、しかも自分もその受領階級の出身のくせに、彼はいくつになっても清廉で高潔な心を失わない。
奇跡のような男だ。
こういう男がいるから、この汚泥に沈むような世界もなんとかやっていけるのだろう。
「友雅殿、何が可笑しいのですか?」
からかわれていると思ったのであろう。
鷹通の顔がほんのりと赤らんだ。
青臭いことを言っていることで馬鹿にされたと思ったのであろうか?
友雅は苦笑した。
「いや、合力(ごうりき)だ、成功(じょうごう)だということを君が嫌っているのは良く分かるよ。
ただね、土御門の花々に聞こえるような声で言ってはいけないよ。
彼女らに何の罪もあるわけではないし、止めることのできることではないからね。」
やんわりと友雅はそう言って釘をさした。
合力(ごうりき)、成功(じょうごう)、どちらにしても、現代風に言えば賄賂ということである。
現代の感覚で言えば、こっそり賄賂を贈り、贈られたほうもこっそり応えるという図式のほうが理解しやすいかもしれないが、この時代の賄賂は公然と届けられ、それに公然と応えるものであるほうが有利に働いた。
華やかな土御門の贈賄は、公達の羨望とともに語り草になっているらしい。
「私の屋敷の処分も頼久の伯父君が是非にと引き受けてくれたしね。」
早くから左大臣よりの姿勢を貫いたことが幸いしたのであろう。
豊かな土地に一族が受領として任官を繰返したことにより、あの一族は都でも随一の富豪として知られている。
武門の誉れとしてよりも、今はそちらのほうが有名なくらいだ。
友雅の邸をさぞ良い値段で買い取ったのであろう。
「権力の癒着を良いことと私には思えません。」
きっぱりと言い切った鷹通に友雅は微苦笑して頷いた。
「私もそう思うよ。
でもね、鷹通、受領も必死なのだよ。
彼らが次に任官される保障はどこにも無いのだからね。
どんなに財を貯めても明日には無一文かもしれない。
その不安が過酷な徴税で民を絞りあげ、権力に近づこうとする心に繋がる。
公税はますます滞る。
それでも体面を保たねばならない貴族も、いや、内裏そのものが彼らを必要としている。
それを本当に何とかしようとすれば、貴族そのものが滅びねば成らないのだろうね。
そして、この世界すべての秩序を壊さなくてはならない。」
友雅はあでやかに笑った。
「まるであの鬼の論理だね、鷹通。」
「わ、私はそのような。」
やはり、この人は計り知れない。
若いころからと同じように醒めた目で現状を分析し、決して権力や財に溺れない。
自分が焦っていることなど、百も承知に違いないのだ。
華麗な平安絵巻も一枚皮をめくれば、地獄絵しか見えてこない。
崩壊に瀕した律令制度、空洞化する政治、過酷な税の取立てに疲弊する国土と民。
それが見える人は少ない。
幸いなことに今は、賢帝であると賞賛される今上帝も、時の権力者である左大臣も醒めた男であり、現実がよく見えることでは共通している。
そして、なんとか破綻した財政が保たれているのは、彼らがいてこそということを鷹通は知っている。少なくとも都が平和に保たれているのは、権勢が安定し、調整がうまく機能しているからである。
しかし、永世の命を持っているはずもない彼らがいなくなった後の都は、この世界はどこへいくのだろうか。
「世の中を変えていくのは、私たちのような貴族ではなく、もっと現実に生き、世界を破壊することを恐れないものなのかもしれないね。」
その友雅の言葉は予言に近かった。




夜になっても、土御門の屋敷の賑わいは変わらない。
今日は、若い公達を集めて管弦の宴を開いているらしい。
母屋の方からは、絶えることなく人々のざわめきと、管弦の音色が聴こえてくる。
とはいえ、永泉や友雅の奏でる最上の音色を聴き慣れたあかねには、どの音も上手には聴こえない。
「藤ちゃん、退屈していないかな。」
若い公達の目当ては殆ど藤姫らしい。
左大臣も、藤姫に若く将来を嘱望される公達を見せておきたいのだろう。
しぶしぶと宴に借り出された藤姫の様子を思い出して、友雅はくすりと笑った。
「さて、姫君のお目に叶う公達がいればいいのだけれどねぇ。」
いや、藤姫は、さぞ御簾の内側で退屈しているに違いない。
友雅は、優雅に閉じた扇で深くなる口元の微笑を隠した。
彼らの集まりに出るのは疲れすぎている。
そういう理由で、妻の房にさっさと引き上げてきた友雅は、すっかり寛ぎ指貫もつけず鮮やかな海松(みる)の袿を羽織っただけのしどけない格好で、脇息に片肘をつき、半ば体をもたれさせるようにして酒を飲みなおしていた。
いとしい妻が同じ屋敷にいるのに、宴に出る気になれるはずがない。
いつでも傍にいたい、その姿を愛でていたい。
いとしい人。
友雅があかねに注ぐ優しいまなざしに止めることのできない熱が灯る。
あかねは、未だになれることができない背の君の熱いまなざしに顔が赤らむことが止められない。
ひとしきり友雅にあやされて満足した小さな姫君は、すでに乳母に抱かれて退室している。
そうなれば、後は夫婦として濃密な時間が待っていることは、いくらあかねでも理解できるし、それが嫌なはずもない。
ただ、それを周りの女房さんたちを始め、みんなが知っているのが恥ずかしい。
「友雅さん、お、お酒、空ですね。」
あわてて、提子(ひさげ)を取り上げると、友雅は微苦笑を浮かべてからになった盃を差し出した。
「あ、そういえば、藤ちゃんがね、友雅さんが越してくる前に、ここの調度を直すんだって、すごく張り切ってくれているんですよ。
でも、お金がかかるし、もったいない気がするんです。
好意に甘えてもいいんでしょうか?」
万事におっとりして、浮世離れしているところが左大臣に気に入られていた母とは違い、しっかりものの北の方が養育した藤姫は、本当にしっかりしている。
頭の回転が良い黒龍の姫君とは好一対といってもいいだろう。
甘味が大好きでも自分から欲しいとねだることもできないほどつつましい彼の姫が、その彼女らの気配りを喜んで受け入れていいものか迷う気持ちは分かる。
しかし、土御門を仕切ることになる彼女たちに逆らって、友雅に良いことは無さそうだ。
友雅はにっこりと笑った。
「私のためになら、確かに心苦しいね。
でも、ご好意を無にするなんていう味気ないこともできないねぇ。」
「そ、そうですよね。友雅さんのためだもの。
もったいないなんて言ってはいけないですよね。」
得心がいったように明るく笑うあかねをみるとほんの少し友雅の心は痛む。
こうやって柔らかいこの人の心を操ることはなんと容易なのだろう。
何年たっても、子供をなしても、この人は清らかな月の姫のままだ。
その姫君を騙すのは、騙されるこの人がおろかなのではなく、騙した自分が卑しいのだ。
そうしてこの人を自分はだまし続ける。
この世界が、地獄を孕んでいると分かっているのに、平和なのだと。
その地獄を覆い隠すしかできない自分を。
そして、この人に気が狂うほど執着し、天に帰る羽衣を奪った自分を。
「友雅さん?」
笑みを絶やしていなかったはずだが、表情に昏い影がよぎったことに気づかれたのだろうか?
心配そうな面持ちで自分を覗き込む姫君に友雅は柔らかく微笑んだ。
「何かな?」
「え、と、何だか疲れて見えたんです。
それで…。」
何かを言いかけて、姫君は口をつぐんでしまった。
友雅は沈黙で、言葉の続きを促した。
言いにくそうに、姫君は何度も言葉を口の中で選んだあと、ようやく口を開いた。
「あのね、お仕事、忙しいのは私のためなんですか?
え、と、女房さんとかがね、言っているのは知っているんです。
左大臣家の婿になったから、友雅さんは一生懸命に働かなくてはいけないって。
だから、その、出会ったころよりもずっと忙しいのかなって。
私、きっといい事だって思って左大臣さんの養女になったけれど、余計なことだったのかなって。」
余計な雑音が耳に入ったのはいつなのだろう?
うつむいてしまった姫君の頬にそっと触れ、その顔を上げさせれば、不安の色が瞳に揺れている。
自分のことを思って不安になってくれているのが嬉しいと思う酷い男。
そんな男の心配などする必要はないのに。
それでもこの人の優しい心は自分の胸にさえ染み透る。
いつからだろう。
ぽっかりと空いた空洞のような胸が、この人への想いで温かく埋められたのは。
友雅は、姫君を柔らかく抱きしめ、安心させるように、ゆっくりと髪を撫でた。
「姫、私は以前に悪夢を見たよ。
どんな夢だったか、話してもいいかい?」
こくりと頷く小さいいらへがあった。
「平和な京の都の自分の邸で私は目を覚ます。
権力争いの蚊帳の外の気楽な身分の左近衛府の少将。
そこには鬼との争いはなく、星の一族も、もちろん八葉もない世界だった。
それなのに何故だろう。
私だけが、鬼との戦いを、そして異界から来たいとしい君を覚えている。
『あれは夢だったのだ』
そう人は言う。
でも君を忘れることなどできない。
君を探すすべもなく、歳月は流れる。
そして、ゆるやかに流れる年月の中で私もまた、君のことを夢だと思う。
それでも君が恋しくてたまらなかった。」
「…それでその夢は終わりなんですか?」
そう、それで自分がゆっくりと壊れて、ゆるやかに朽ちて死んでいく。
それだけの夢。
友雅は微笑んだ。
「そうだよ、それで終わり。
ねぇ、姫君。私はなんと幸せなのだろう。
本当は、あの自分が本当の結末で、今の私は、あのもう一人の自分が見ている幸福な夢なのかもしれない。
そう不安になるほど幸せだよ。」
唯一の慰めである死に瀕した自分が最期に見ている幸福な夢。
「夢じゃないです。」
姫君の小さな声が答える。
そして、そのことを証明するように、姫君の小さな唇がおずおずと重ねられた。
「愛しています、友雅さん。
この私の気持ちを夢にしては嫌です。」
真っ赤になりながら、懸命に自分の気持ちを伝えようとする姫君の真剣な言葉は、技巧と装飾と故事に精通した知識に裏付けられた和歌よりもなお心に響く。
「愛しているよ、私の姫君。
君を想う気持ちだけは本物だと私も思うよ。」
幾百の嘘を重ね、幾百の涙と血を流して、幾百の恨みを買ってもかまわない。
地獄のような世界を極楽浄土とも偽ろう。
それで君が幸せなら。
この人の笑顔だけが、自分の本物。
このいとしさだけが自分の真実。




国庫の財政破綻が始まったのは律令政治という大陸の政治形態を取り入れた時に遡る。
本来、科挙といって、合格すれば即、高官への道が開ける制度が必須のはずなのに、肝心のそれを抜いた形で始まった異形の律令制度がまともに機能するはずがなかったのだ。
虚構で始まった政治が本当の現実を生きるものによって壊されることは必定のこと。
今のところは民衆にそれだけの力はない。
しかし、ゆっくりと地方から地方地主階級、いわゆる土豪とよばれる者たちの力は育まれていく。
そして、とかく税の上がりが悪いと貴族の間で問題になる関東から、土豪たちが立ち上がるのには、未だ二世紀ほどの間があった。
崩れいく王朝の最後の輝きにも似た幸福な時代は、彼が望んだように今しばらく続くこととる。
これは、そんな時代の泡沫の夢物語。





2003©水野十子/白泉社/KOEI/ 草原遼






『White Night』サイト一周年記念のフリー創作を頂戴してまいりました。

はからずも友雅さんの心をとかしているあかねちゃんが愛しいv
彼女を上手くのせたつもりで、結局の所負けている友雅さんも、また愛しいv
難しい話などわからないけれど、あはっo(;゚∇゚)ゞ



  







背景:咲維亜作