「京の文化事情 その六 陰陽道事情編」




少し考えてみれば、それは当然予測できてしかるべきことであった。
泰明が、どう行動するかなど、予測しておくべきことであったのだが…。




冬の朝。
まだ夜も明けきらぬ都は、空気までもが凍りつくような寒さである。
流石に行きかう人もまばらな都大路を、二人の青年が歩いていた。
いや、正確にいうと、一人はすたすたと歩き、もう一人が小走りに追いかけているといった方がいいのであろう。
一人は稀代の陰陽師、安倍晴明の最後にして最大の弟子と呼ばれる安倍泰明。
もう一人は、仁和寺で僧籍にある御室の皇子とも呼ばれる永泉。
かなりの早足で歩いているのもかかわらず、汗ひとつかくわけでもない泰明に比べて、永泉は額からとめどなく汗が流れ、息もかなり上がっているようだ。
「お、お待ちください、泰明殿。
あなたの足は速すぎます。」
ぴたり。
ようやく言うことができた永泉の言葉に、泰明は唐突に立ち止まった。
そして、勢い余ってその背に激突した永泉をじろりと睨んだ。
「早すぎるか?」
怖い。
慣れたつもりであっても色の異なる双眸で見つめられると、相変わらず、つい腰が引ける永泉であった。
「いえ、その、私の足が遅いのだということは分かっています。」
「そのようなことは聞いていない。
足が速すぎて、何の不都合があるのかと訊ねているのだ。」
会話がかみ合わないことこの上なし。
内気で人を気遣いすぎる皇子と、強気でマイペースな陰陽師。
これで、案外仲がいいのは都の七不思議のひとつかもしれない。
永泉は泣き出しそうな目をして首を横に振った。
「不都合なのではありません。
私が、あなたの足についていくのはもう難しいのです。」
言葉の合間にも聞こえる上がった息。
紅潮した頬と、さらさらとした前髪がべったり汗で張り付いた額。
私は限界ですと、言わなくても分かりそうなものなのだが。
ともかく、永泉の言葉で得心がいったように泰明は大きく頷いた。
「よし、分かった。」
ほっと、安堵のため息をついたその瞬間。
永泉の視界が90度下に下がった。
軽々と永泉は泰明に担ぎ上げられてしまったのである。
しかも、荷物みたいに左肩に乗せられて、腰をつかまれた世にも情けない格好で。
「や、泰明殿?!」
「問題ない。」
永泉の悲鳴は泰明のいつもの台詞でさえぎられた。
「おまえはもう歩くことができない。
私は急いでいる。
そうなれば、こうするのが一番合理的なのだ。」
本当にそうなのでしょうか?
思わずそう口の中で呟いてしまう永泉であった。
「おまえに合わせてゆっくり歩いていたが、これで早くつけそうだ。」
さっきまでの早足でも気を使っていてくれたのですか?!
そう訊ねる間もあればこそ。
往年のカール・ルイスも裸足で逃げ出すような素晴らしい速度で、泰明は歩き出した。
あくまで歩いていたのであるが、その驚異的なスピードの恐怖に永泉の声にならない悲鳴が都大路に響いていったことはいうまでも無い。




「やっぱり、詩紋の作ったお菓子はうまいなぁ。」
イノリの元気な声が響き渡った。
土御門の西の対屋の一角の簀子縁。
階にどっかりと腰をすえて、イノリは、「くっきー」とかいう異界のお菓子を賞味中であった。
甘くてほろりとしたこの菓子は、「けーき」の次にイノリのお気に入りである。
過ぎていった歳月は、イノリの上にも変化をもたらしていた。
職人らしく水干装束はかつての八葉のころと同じだが、随分と背が伸びた。
とはいえ些か伸びすぎた身長に体格が追いつかず、ひょろりとした印象はぬぐえない。
鍛治の仕事についたものらしく、腕と肩だけは逞しく筋肉が発達しているために余計に体のバランスが取れてはいないが、もうじき目を見張るような青年期を迎えるのであろう。
しかし、こうしてはしゃぎしながらお菓子を頬張っている彼は、いまだ十五歳の少年そのものだ。
あかねは、階のそばまで行って、イノリの顔を覗きこんだ。
「最近、あんまり顔を見せてくれないから、心配していたんだよ。
元気でやっている?」
「おう、元気だぜ!
寂しがらせてごめんな。
昔と違って、見習いじゃねぇからなぁ。
仕事にかかると、なかなか時間がとれねぇんだよ。」
ぽりぽりと頭を掻きながら、言い訳したが、実際に刀を打ち始めて、楽しくて仕方のない時期なのだろう。
「仕事なら仕方ないよ。
いい刀、作ってね。」
「勿論だぜ!」
元気に答えたとき、廂の間から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
それは、春に生まれたあかねと友雅の子供。
一粒種の姫君だ。
「あ、ごめんな、声大きかったか?」
「ううん、そろそろ起きる時間だから。
ちょっと、待っていてね。」
小袿の裾裁きも軽やかに、廂の内側に入っていく後姿は、長くなった髪のためもあり、知らない姫君のようでイノリは少し寂しい。
もっとも、他の貴族の姫とは違って、あかねは自分の赤ちゃんを自分で育てている。乳母は殆ど育児監督係りといったノリだ。
「イノリくんだよ、姫。」
小さい姫君を抱いて出てきたあかねの笑顔が眩しい。
本当に綺麗になった。
こいつが、綺麗になったのが、自分のためで無く、あの友雅って言うタラシなオヤジのためだっていうのが気にくわないが、ここでこうして笑ってくれるこいつの顔を見ることができるのは悪くない。
だけど、そんなことを思っているなんて思われるのは恥ずかしい。
イノリは、立ち上がると小さな姫君を覗き込んだ。
起きたばかりだというのに、もう機嫌よく笑っているのがあかねみたいだ。
「なあ、俺に抱っこさせてくれよ。」
「うん、いいよ。」
近所の子供の世話でなれているイノリは、頼久や鷹通などよりはよほど器用に小さな姫君を腕に抱き取った。
高く持ち上げると、姫はますます上機嫌にきゃっきゃっと笑う。
「よし、いつものやるか?」
高く持ち上げたままぶんぶん振りまわすと、姫の甲高い笑い声があたりに響いた。
人懐っこい性格といい、桃色の髪といい、零れ落ちそうな大きな目といい、あかねに良く似ている。
いや、本当に友雅の血がどこら辺に流れているのか分からないくらいだ。
と、そのときである。
ごんと、拳の落ちる音と共に衝撃がイノリの頭に響いた。
「いってぇ!!何しやがる!」
振り返ると、そこに黒い巨大な影をバックに立つ黒龍の姫。
雪女の方が千倍は温かいと思われるその笑顔が怖い。
「イノリ、あなた、私のあかねちゃんの大切な姫に何してんのよ!」
誰のあかねちゃんだ!
突っ込み返す気力はイノリには無かった。
「はい、済みませんでした。」
「蘭ちゃん、蘭ちゃん、怒っちゃだめだよ、ね?」
のほほんとしたあかねの声が天の声に聞こえた。
「もう、あかねちゃんてば、優しいんだから。」
語尾にハートマークがつきそうな優しい声だった。
さっきの雪女の何処からこんなやさしい声が出せるのだろう?
ささやかな疑問がイノリの頭をかすめたが、細かいことは気にしないことにした。
「それに、ちぃ姫も喜んでいるし。」
にこにこと、春のひだまりみたいに笑うあかねは、何も気づいていないみたいだった。
『鈍い。』
イノリは端的にそう思った。
昔からこいつは変なところでは妙に鋭いくせに、基本的に徹底的に鈍い。
だからこそ、黒い蘭と藤姫、彼女たちよりもなお黒い友雅と付き合っていけるんだろうが。
それにしても鈍すぎないか?
そういえば、いつものメンバーに一人足りない。
「おい、あかね、藤姫は?」
「藤ちゃんはね、占いだよ。
おうちを立てるのに色々ね、吉日を見なくちゃいけないってね、晴明様とか来てね。
朝から母屋で何かしているよ。」
そういえば、左大臣が大きな邸を立てるって言ってたな。
イノリは市井で聞いた噂を思い出した。
大貴族ともなれば、邸を立てるのも大変だ。
「もう昼過ぎだって言うのにまだ占っているのか?」
「ばか者、邸を建てるということは、それだけ慎重にせねばならぬということだ。」
イノリの疑問に答えた声は、庭先から聞こえた。
冬枯れた中にも常緑樹と小さな冬の花で整えられた風雅な庭に姿を現したのは、泰明と永泉であった。
言うまでも無いことだが、先刻の『ばか者』は泰明のものである。
永泉は勿論、おどおどと泰明の袖を軽く引いて抗議した。
「や、泰明殿、そのような言い方をなさらなくても。」
「そうよ、泰明さん。
イノリはともかく、私とあかねちゃんは現代人なんだから、わかんなくて当然でしょう?」
相変わらず、あかね以外には辛辣な蘭であった。
泰明は、蘭の意見にしごく真面目に頷いた。
「分かった。説明すれば良いということだな。」
いや、別に興味ないって。
イノリはそう突っ込みたかったが、三歳児なみの『何故だ?』を連発する泰明と議論だけはしたくなかった。
そのくらいなら退屈な講義を聴いたほうがまし。
そう決意したイノリは、こくこくと首肯した。
「邸には八神が存在する。
すなわち善神五神、悪神三神。
善神の居を大きく、悪神の居は小さく取らねばならない。
善神とは、天尼神、歓喜神、茶枳尼神、宇賀神、摩訶迦羅神。
悪神とは、三障神、祖毒神、羅殺神。
その神々の配所を誤ると家は衰退する。」
漢字変換が大変な神さんがどうしたって?
この辺でイノリの意識はそろそろ怪しくなる。
そういえば、昨日までこのうちの武士団に頼まれていた刀を仕上げんのに徹夜していたんだっけ?
刀は、なかなかいい出来だった。
最後の焼入れが甘いが、なかなかいい出来だって、珍しく師匠が褒めてくれたんだよな。
うん、我ながらいい出来だった。
充実した仕事に見合うだけの報酬ももらえたし、何より喜んでくれていたよな。
その帰りの楽しいひと時に、あかねがお菓子を食べていってくれって言ってくれて。
ああ、何でこんなところで、庶民のイノリが一生建てることはないであろう邸宅の講義を聴かなくてはいけないのだろう?
「聞いているのか?」
「いっ、はい!」
鬼教授、泰明に底冷えするような声で、そういわれて、イノリは姿勢を正した。
「ならばよい。これからが大切なところだ。
邸を建てる日は、勿論、占わねばならない。
楚居(そきょ)、柱たて、棟上げ(むねあげ)はもちろんのことだ。」
ちなみに楚居(そきょ)とは、柱を立てる礎石を地中に収めること、柱たてはもちろん柱をたてること、棟上げ(むねあげ)は柱と梁(はり)をくみ上げた後に屋根の骨格である棟木を上げて水平にすえることをいう。
どれも現代の建築にも当てはまり、地鎮祭や建て前というように一部残っている儀式を御存知の方も多いであろう。
「そのほかに、杣山(そまやま)入りといって材木を切りだすために山に入るのに好ましい吉日。
そしてその材木を切り出すのに良い材木取りの吉日、巧匠(たくみ、大工のこと)が木を導き招き置くべき吉日。
占うべきことはいくつもあるのだ。
分かるか?」
十分に分かりました。
イノリはそう思った。
細かいことはよく分からないが、庶民と違って、貴族が邸を建てるのが面倒なことだけは分かった。
「すごいですね、泰明さん。」
ほえ〜。
のどかにあかねが賞賛してくれる。
「それで、泰明さんは、晴明様のお手伝いに来たんですか?」
泰明の口元が笑みの形を作り、目が優しく細められる。
「いや、違う。
友雅がここに居を移し、藤姫が母屋に移るとなると、気の流れも変る。
結界を張りなおそうと思っているが、取り敢えず今はほころびがないか点検し、補強するために来た。」
あかねに褒められると、こいつも笑うんだ。
と、イノリの感想。
安倍家と皇家の結界はメンテナンスもバッチリということね。
と、冷静な蘭の感想。
朝から土御門のあちこちを引き回されていましたが、これが取り敢えずの処置なら、本格的なときにはどのくらいかかるのでしょう?
と、存在を無視されかけていた御室の皇子の嘆き。
そんなそれぞれの思いを感じ取れないあかねはにっこりと笑った。
「本当にすごいですね、泰明さん。永泉さんもそれで来てくれていたんですね。
二人ともありがとうございます。」
心から素直にお礼を言えるのはあかねの美徳のひとつだ。
ほんわかと空気が暖かくなる。
「ところで、朝から晴明様と藤ちゃんが泰明さんを探していたのはどうしてなんでしょう?」
「問題ない。」
あかねの問いから泰明の答えまでの速度は0.2秒を切っていた。
おい、本当は占いの手伝いが必要だったんじゃねぇの?
イノリはそう口に出しかけて、ぎくりとした。
背後に真冬の冷気を一身に集めたかのような黒い龍の気配が迫る。
『余計なことを言って、あかねちゃんに心配かけるんじゃないわよ〜。』
艶やかな黒髪が逆立って、蛇のように自分の首に巻きついたと思うのは気のせいだろうか?
もちろん、イノリは口を閉ざしてこくこくと首肯した。
まだ、死ぬには早すぎるぜ。
その感想が冗談でないところが、ここの尋常ではないところだ。
そんなイノリの心の中を察しようなんて微塵も思っていないのだろう。
泰明はくるりときびすを返して、永泉の手をむんずと掴んだ。
「永泉、まだ半分以上、残っている。
これ以上、休んでいる暇はない。
行くぞ。」
「は、はい、それでは神子、また後ほど挨拶に参りますので…。」
泰明に引っ張られていった永泉の後の言葉は、もう聞き取ることが出来なかった。
「はい、待っていますね、永泉さん、泰明さん。」
のんびりと言って、あかねはにっこりと笑った。
「蘭ちゃん、じゃ、二人の分も、お菓子を用意しておこうね。」
土御門での法律は、あかねを悲しませないことである。
しみじみと思わずにはいられないイノリであった。




陰陽の考えが全てを決めていた平安期に、貴族の邸を建てることは大変なことである。
陰陽師にとっては美味しい金儲けの機会であったことには違いないが、事故無く素早い造営が出来なければ、自身の評判にもかかわるので大変なことには違いない。
そして、マイペースで、神子が世界の中心な弟子を持ってしまった平安期で尤も高名な陰陽師もなかなか大変な様である。
そんなことまでいちいち心配する俺っていいヤツじゃん。
暖かな冬の日の午後、ぼんやりとそう思うイノリであった。



咲維亜挿絵



2003©水野十子/白泉社/KOEI/ 草原遼






『White Night』サイト一周年記念のフリー創作を頂戴してまいりました。

格式ばったお話になるかと思っていただけに……
ルールブックであるあかねちゃんにより(あくまでも本人が出張っている訳でもないのに…)繰り広げられる世界が、なんとも愉快!!!ですッッ。虚をつかれました。



  







背景/挿画:咲維亜作