「京の文化事情 その六 人事事情 」 少し考えてみれば、それは当然予測できてしかるべきことであった。 藤原一族の長者たる左大臣がこう言い出すなど、予測しておくべきことであったのに・・・。 「土御門も手狭になってきた。」 左大臣がふとそう呟いたのは暖かなある秋の日のこと。 澄んだ秋の涼しい空気に中秋の名月。 虫の音色と草木のざわめきが静かな自然の音曲を紡ぎだす。 その美しさに身を浸していた橘友雅は、一瞬反応が遅れたが、それは社交儀礼だけは血肉の一部のようになっている彼のことである。 物柔らかな微笑を浮かべて、舅である左大臣に首肯して答えた。 月を愛でながら婿と酒を飲みたい。 そう言って招かれ、邸の一角の簀子縁で二人きりで酒を飲み交わしてしばらくの時が経ったころのこと。 どうやらようやく本題に入ってくれたらしい。 もっとも少し考えれば分かっていたことかもしれない。 中宮の父であるだけで無く、先ごろは入内した東宮妃の父でもある彼にとって、舅から相続した土御門がいささか手狭に感じられるのは無理もないことだ。 尤もこの広大な土御門からすれば、友雅の所有しているささやかな邸など、掘っ立て小屋にも劣る狭さであるのだが。 「春には新たな邸に移ろうと思っている。」 彼が口に出して意思を告げたとなれば、もう自身の構想は出来ているに違いない。 友雅は微笑した。 左大臣も微笑した。 お互いに魅力的であるが、底の知れない笑みである。 「この土御門は藤にやろうと思っている。 西の対屋は貴殿におまかせしたいが、どうであろう?」 世間話でもするような左大臣の言葉に、一瞬友雅も言葉を失った。 確かに藤姫は左大臣の娘の一人ではあるが、この土御門は元をただせば北の方の持ち物である。 それをなさぬ仲の藤姫にとは、どういうことだろう? 「家を継ぐ娘は皆、妃に入ったからな。 それに私も妻も娘たちが可愛い。 この先も幸せにと願うのは不思議なのかね?」 その言葉で察せぬほどに友雅は魯鈍ではない。 「二つの邸の面倒を見るのは大変であろう?」 左大臣に念を押されるまでもないことであった。 こうして橘友雅は、住み慣れた五条の邸を手放し、左大臣家に根を下ろすことになったのである。 そのことを頼久が知ったのは、その夜からしばらく後のことであった。 天真の鍛錬に付き合った後、ついでにと西の対屋を見回っていたとき、ふらりと春に生まれた小さな姫君を抱いて友雅が現れた。 確か友雅は頼久よりも六歳年上のはずだが、老いもこの人の前には穏やかな休戦を宣言しているらしい。 高くなった官職と政治的な地位が威厳と落ち着きを加えはしたが、匂い立つような艶やかさと華やかさは全く変らない。 何か邸のことを相談していたのであろうか。 詩紋が彼のそばにつき従っていたようだが、こちらの視線に気がつくと、友雅は花が開くような笑みを浮かべた。 「頼久、天真、相変わらす仲がいいね。 羨ましいよ。」 「こんにちは、頼久さん、天真先輩。」 外国人だったという祖父の影響が濃い詩紋は随分背が高くなった。 もう友雅とそれほど変らないほどだ。 武官である彼と比べると、体格は劣り華奢な感じはいなめないが、狩衣を着て長くなった髪を緩く首の辺りで縛っている姿を見ていると、天真や神子殿と共に異界から来たころの子供の面影が薄くなったと感じずにはいられない。 その落ち着きをみていると、もとからこの世界にいたようにさえ思える。 そんな頼久の思いは、世間話をするみたいに気軽な調子でこういった友雅の一言で終わりを告げた。 「春に新築される枇杷邸に左大臣が移られる前に、私の住まいをここに移すことになったよ。」 小春日和の温かな午後。 突然の宣言に、今ひとつ反応できない青龍の二人と、なんとなく察していたのか真面目に頷く詩紋に、微笑みながらさらに言う。 「娘も生まれたことだし、蔵人の頭の役目も終ったから丁度いい機会だと私も思ってね。」 年が改まった後の徐目で友雅は蔵人の頭を免ぜられ、兵部卿となった。 今で言うところの防衛長官というところであろうか? もっとも侍従と中将の役職はそのままなので、忙しいことには変りがなさそうである。 それに、新しい頭の弁(蔵人の頭の文官の方の名称。武官、文官の二名が任命される)は、左大臣家の息子の一人で、友雅を頼りにしていることは知っている。 おそらく、政治に対する影響力は今以上に強くなっていくのに違いない。 閑話休題。 ともかく、公正な立場が望ましい蔵人の頭を免ぜられたことで、左大臣家に身を寄せることに問題はなくなった。 そうともなれば神子殿と娘のそばにこれまで以上に居たいと、一緒に住みたいと思うのは当然のことであろう。 「近く、あちらの邸を整理して、こちらに住まいを移そうと思っている。 慌しくなると思うが、よろしく頼むよ。」 「おう、任しとけよ。 力仕事なら得意だからよ。」 元気に即答する天真の頭を頼久のこぶしが直撃した。 「いってぇ!!」 じーんと痺れる頭を抱えて、思わず天真は座り込んでしまった。 「何すんだよ!!」 思わず怒鳴って見上げれば、アクラムも裸足で逃げ出すような無表情に怒る頼久の顔。 ちなみに背景はベタで雷フラッシュが落ちていた。 「それが私たちの仕事であろう。 これから友雅殿がここに住まわれるということは、正式におまえの主人となることになるのだぞ。 それなのに、その言葉遣いはなんだ? ここではっきり言っておく。 けじめと言うものが天真には欠けているのだ。」 思わず腰が引けた天真に追い討ちをかけるように頼久がそう言った。 それにしてもだ。 いつもは超がつくほど無口なくせに、何でこういうときだけ饒舌になるのだろう? これで反論すれば、刀を抜きかねないくらいマジに切れかかっている。 「あはは、今更天真に敬語を使われたら気持ちが悪いよ。 頼久、それだけは勘弁してくれないかな?」 友雅の軽い口調が今日ばかりはありがたい。 「しかし、友雅殿。」 「君だって、私に対等な口をきくように命令されたら戸惑うだろう? 同じことだよ。 ねぇ、天真。」 うかつに口を挟みたくないが、とりあえず天真はこくこくと頷いた。 頼久の視線は険しかったが、反論はできないらしい。 取り敢えずちょっと、勝った気分になって、天真はふふんと鼻をならした。 「天真先輩、それで勝つのはちょっと情け無くないですか?」 絶妙に入ってくる詩紋の突っ込みに、 「うるせぇ!」 と、思わずこぶしで応える天真であった。 そのとき、 「あぅ?」 小さな姫が小さな体をうんと伸ばして、ミルクの匂いのする溜息をついた。 くるりとした大きなつぶらな瞳が、父を捉えると、極めて機嫌よく、くぅくぅと咽喉をならして笑い出す。 「ふふっ、年をとってからの子供とは可愛いものだね。 本当に小さくて、いといけで愛らしいね。」 友雅の差し出す指を握ってご機嫌な小さな姫は、このごろしっかりしてきた顔立ちが益々あかねに似てきたような気がする。 だから余計に可愛いのだろう。 この姫君への溺愛ぶりを知らぬものはないほどに、友雅は小さな姫君を可愛がっている。 「ところで、頼久。 君は左大臣に付き従って枇杷邸に行くか、ここに残るか決めたのかい?」 「は?」 唐突な友雅の質問に、頼久は一瞬言葉を失った。 友雅は、小さな姫君をあやしながら、にっこりと笑った。 「は、ではないだろう? 源氏の棟梁の息子として、できれば枇杷邸に行かせて欲しいと君の叔父君に頼まれてしまったよ。 確かに左大臣様について行った方が君の将来のためには良いと思うのだがね。」 「わ、私に出て行けと申されるのですか?」 世にも情けない顔。 今の頼久の表情はそれにつきる。 源氏でも一番のつわものと呼ばれる武士なのに、まるで飼い主に捨てられる寸前の犬ではないか。 架空の耳が横に開いて垂れ、ふさふさの尻尾が寂しげに垂れ下がっているのが見える気がするのは気のせいであろうか? 『途方も無く情けない。』 思わず顔を見合わせてそう思ってしまう詩紋と天真であった。 友雅は相変わらす、感情の読めないあいまいな微笑を浮かべている。 「出て行けなんていっていないよ。 君はどうしたいのかを訊ねているだけじゃないか。 確かに、君の将来のことを考えれば、枇杷邸に行ったほうがいいと思っているけれどねぇ。」 世界の不幸を一身に背負っています。 友雅の言葉を聞いたあとの頼久の真っ青な顔色と愕然とした表情を直訳すればそうなる。 『友雅さん、苛めすぎです。』 そういう視線を友雅に送れば、案の定、友雅は詩紋に悪戯めいた笑みを浮かべてみせた。 そして、 「…ただね。」 と、頼久の肩を叩く。 「ただ、神子殿は君がいてくれれば、とても心強いと言っておられたよ。 もちろん、私もね。 それは私たちの我侭だと承知してはいるけれど。」 その艶やかな微笑みは、あまりに魅力的であった。 ころりと頼久が騙される音が、詩紋の耳にははっきりと聞こえた。 『善人のような顔してとんでもなく黒いことをする人なのです。』 いつか藤姫がいっていた言葉が天真と詩紋の中でこだました。 「我侭など! 私は一生をかけてお守りする主人を見出したのです! お願いですから、今までどおり、ここを、神子殿をお守りさて下さい!」 「嬉しいよ、頼久。」 あくまでも穏やかな微笑を浮かべて、友雅はそう言った。 「いえ、私の役目ですから。」 控えめには応えていたが、無表情のままであったが、詩紋と天真には、頼久の架空のふさふさ尻尾が、千切れんばかりにぶんぶん振られているのがはっきりと見えた。 『赤ちゃんの情操教育に悪い人だなぁ。』 そんな詩紋の思いとは裏腹に、小さな姫はご機嫌であった。 「ところで、詩紋、君はどうする? 君は北の方にも気に入られているし、家司の則義殿も数字に詳しい君がいると助かると言っておられたのだがね。」 自分の考えが伝わったわけではないだろうが、矛先が突然向いて詩紋は、ぎくりとした。 しかし、友雅は相変わらずのあいまいな微笑を浮かべたままで、全く腹の中は読めそうにない。 この笑顔がくせもので、世の中の人はけっこう友雅を穏やかな男と思い込んでしまうらしい。 『だから内裏で辣腕を振るっても、なんとなく飄々とした浮世離れした貴公子で通っちゃうんだろうな。』 しかし、敵にすればやっかいでも味方であればこれほど心強い相手もそうはいない。 詩紋はにっこりと笑った。 「僕がしたいことは、友雅さんが一番御存知でしょう?」 「持続する意志力。 それは賞賛されるべき君の資質のひとつだね。」 本当に友雅は恐ろしい人だ。 そのことはきちんとわきまえないと、足を取られるだろう。 「君たちが残ってくれると本当に心強いよ。」 鮮やかな微笑を浮かべる友雅の肩をつんつんと天真がつついた。 「おい、友雅。」 「何だね、天真?」 「俺は、あんたに一言もここに残るって言ってねぇぞ。」 友雅の目がほんの少し見開かれた。 「天真、君は別に枇杷邸に誘われてないよ。」 さくっ。 大きな架空の刀が天真の頭に突き刺さった。 「こ、これから誘われるかもしれねぇだろう!?」 いや、それは無いだろう。 頼久の冷静な視線を直訳するとそうなる。 思いっきり入った頼久からの突っ込みに、さくりと二本目の架空の刀が天真の頭に突き刺さった。 「お、俺は役立たずだって言いたいのかよ!」 「いや、私は天真を頼りにしているよ。 それに蘭殿が姫君から離れられない以上、妹想いの君が私や姫を見捨てるとは思わなかったのでね。 ここにいてくれると思い込んだのはいけないことだったかな?」 ナイスフォロー。 詩紋は友雅にそう呼びかけたくなった。 にっこりと笑う友雅に、天真はまんざらでもなさそうな表情で頭をかいた。 「そ、そりゃまあ、そうだけどよ。」 天真の扱いに慣れている。 やっぱり友雅さんだと詩紋は妙に感心してしまった。 更にご機嫌に天真は続けた。 「ま、ここの事は俺に任して置けよ。」 天真が一生、友雅のおもちゃになることが決定した瞬間であった。 そのことが詩紋にだけはよく分かった。 もっとも天真がそのことを知る日がくるかは定かではない。 『知らない幸福ということも世の中にはあるから、これでいいんだろうな。』 詩紋の感想を知っているのかどうか。 友雅は、人差し指を薄い唇にあて、 『内緒だよ。』 と、いうように笑った。 貴族の引越し。 それは、人事も分けるということである。 この後は、枇杷邸と藤姫に割かれてしまう女房の確保と五条の邸宅の使用人の割り振りも待っている。 入り婿になることも楽ではない。 そんな友雅の心の内を知ってか知らずか、腕の中の小さな姫君は大好きな父上に抱かれてご機嫌であった。 その姫といとしい妻と暮らすためならこの程度の苦労が加わっても仕方がないか。 そんな風に思う暖かな冬の日。 春の引越しには今しばらくの時間があった。 了 |
2003©水野十子/白泉社/KOEI/ 草原遼
『White Night』サイト一周年記念のフリー創作を頂戴してまいりました。 ご主人と犬のような、友雅さんと切なげな頼久さんのやり取り、天真くんと友雅さんの絡み具合、素敵に育った詩紋くんと、魅力満載、目白押し状態!! その圧巻ぶりにたじたじです(* ´┏Д┓`)フッ |
背景:咲維亜作