すべての生命(いのち)は、海より出でて、海へと還る・・・。 誕生 〜 記憶 〜 ・・・海の音が聞こえる・・・・・・。 遠くに響く波の音に誘われるかのように、花梨はふいに目を覚ました。辺りの暗さからするとまだ夜は明けていないのだろう。 花梨が身じろぐと、小さく自分の名を呼ぶ低く艶のある声が耳に滑り込んできた。 「花梨?」 「・・・翡翠さん。」 「夜明けにはまだ間があるよ。眠れないのかい?」 「海の音が・・・。」 「?」 「海の音が聞こえて、目が覚めて・・・。」 花梨は、ぼそぼそと小声で話す。翡翠は花梨の言葉から外に意識を向けるが特に普段と変わった様子はない。 「特に普段と変わらないようだね。」 「そうですか。・・・ところで翡翠さんは?眠れないんですか?」 腕の中からじっと見つめてくる花梨に、翡翠は微笑みかける。 「君が動いたから、どこかに行くのではないかと心配になってね。」 冗談半分、本気半分でそう言うと、花梨はぷっと頬を膨らませた。 「どこにもいかないです。」 「そうかな?君は脱走癖があるようだし?」 「ありません!」 「そういうことにしておこうか。」 くすくすと笑う翡翠に納得がいかない花梨だったが、口で翡翠にかなうわけがないので、気持ちを切り替えて、ここ数日翡翠に聞きたかったことを聞くことにした。 「・・・ねぇ、翡翠さん?」 「何だい?」 「誕生日プレゼント、何が欲しい・・・?」 明日は(子の刻を過ぎたのですでに今日だが)、翡翠の誕生日であった。 「本当は突然渡して、驚かせようと思ってたんだけど。中々いいものが思いつかなくて。」 「・・・『誕生日』ね。」 一瞬、翡翠の瞳に浮かんだ翳りを花梨は見逃さなかった。 「翡翠さん?どうかしましたか?」 「いや。たいしたことじゃない。」 「『たいしたことじゃない』って瞳じゃなかったですよ。何かありました?」 誤魔化す事を許さない、花梨のまっすぐな視線が翡翠を貫く。 「・・・私が生まれた日は母が命を失った日でもあるというだけだよ。」 「えっ?」 「私の産みの母は、私を産んだその日になくなったそうだ。きっと母は恨んでいるだろうね。私のせいで亡くなったのだから。どちらにせよ、もう昔の話だ。」 どこか遠くを見つめるように話す翡翠に花梨は泣きたくなった。 「ごめんなさい・・・。」 「気にしてないから、花梨が謝る必要はないよ。」 「でも!」 「父はそのことで私を責めたことはないし、色々なことを教えてくれた。育ての母もそうだ。だから少なくとも私は不幸ではなかった。」 とうとう耐え切れずに頬に流れ落ちた一筋の涙を、翡翠は口づけで拭う。 「過去のことより、今花梨に泣かれるほうがつらいよ。」 花梨は、泣き顔を見せないように翡翠にぎゅっとしがみついた。 (ごめんなさい・・・。無神経なことを聞いて・・・。) 翡翠は泣き出してしまった花梨をなだめるかのようにしばらく背中を撫ぜていたが、ふと不思議な気配と異変に気がついた。 ・・・波の音が大きくなっている? 「翡翠さん?」 翡翠の纏う気配の変化を感じ取り、花梨が呼びかける。 「花梨。先程より波の音が大きくなっていると思わないかい?」 「そう言えば・・・。」 二人は褥から体を起こし、辺りを伺う。 確かに先程より、音が大きくなってきている。 「花梨はここにいなさい。」 「いやです!」 間髪いれずに答えた花梨に、やれやれとあきらめ半分で翡翠が告げる。 「では、私の側を離れないように。いいね。」 「はい!」 そして2人で外に出た時、目の前に不思議な光景が広がっていた。 「・・・何。これ?」 2人の前に海が広がっていた。正確に言うなら、海の映像と言えばいいのだろうか。 屋敷の庭と重なるように海の水面が見える。翡翠がそれに向かって手を伸ばすが、手に触れてくるものは何もない。 「幻の海、という訳だね。」 目の前に水面が映り、寄せては返す波の音も聞こえるというのに触れることがかなわない幻の海。2人はゆっくりとその幻の海に向かって下りていった。 「不思議ですね。見た目海の中にいるのに濡れないなんて。」 「怪しげな気配はないが、用心したほうがいい。」 「そうですね。でも私もいやな感じはしないです。どちらかっていうと暖かい感じ。」 −そう、先程から感じるのは恐れでも、嘆きでもなく、ただ慈しむ暖かい感じ・・・。 そう感じた直後、2人は足元が掬われるような感覚に襲われた。まるで波が足元の砂を沖へと浚っていくかのように。 「翡翠さん!」 「花梨!」 今まで穏やかだった幻の海の波が、2人に覆いかぶさってくる。2人は、その波に導かれるかのように、意識が遠のいていった・・・。 *** ・・・自分の名を呼ぶ声に花梨の意識が浮上する。 『・・・梨。花梨。』 『・・・?翡翠さん?』 『気がついたかい?』 花梨が目を開けると、そこには花梨を覗き込む翡翠の顔があった。が、その時花梨は違和感を感じた・・・。花梨が目を覚ました時に翡翠が覗き込んでいるのは別段珍しいことではないのだが・・・・・・。 『ひ、翡翠さん。』 『何だい?花梨。』 『何だか体が透けてるんですけど・・・。』 違和感の原因。それは翡翠の体が半分透けていたからだった。そして慌てて花梨は自分の手を見るがやはり同じように透けている。ついでに言うと2人の体は宙に浮いていた。 『そのようだね。』 『何でそんなに落ち着いてるんですか。これじゃあ幽霊じゃないですか。』 『死んだ覚えはないし、死ぬような目にあった覚えもないから、この場合は生霊というのではないのかな。』 『幽霊講釈はいいから!翡翠さん、こんな時に何でそんなに冷静なんですか!』 翡翠は半分パニックを起こしかけている花梨の頭・・・はすりぬけてしまって無理なので、頭のあるあたりを撫でる。 『「こんな時」だからこそ、だよ。落ち着いて刻一刻と変わる状況に対応できなければ、海賊なんてやってられないからね。』 『・・・そっか。そうですよね。』 『かといって、ここにずっといる訳にもいかないね。』 −どうするか。2人で思案しているところに風に乗って人の声が聞こえてきた。 『翡翠さん。これって人の声ですよね?』 『読経の声のようだね。』 『行ってみましょう。翡翠さん。』 2人が移動しようと思った時には、もうすでに屋敷の中に移動していた。 『あれ?!』 『もう目的の場所に着いたようだね。』 部屋の中では護摩が焚かれ、数人の僧侶が読経をあげている。 そして、その先には帳台が置かれていた。そして、その帳台から声が聞こえる。 「あなた。あの子は?」 「体を清めて、今乳母が乳を与えている。」 「そう。あの子の成長した姿が見られないのは残念だわ。」 「何を弱気な。」 「自分の体のことだものわかるわ、もう時間がないって。ねぇ、お願い。最期にあの子に会いたいの。連れてきて。」 「わかった。」 男が几帳を除け出てきた。それを見ていた2人は思わず息をのむ。 帳台に横たわっていたのは、翡翠によく似た面差しを持つ女性だったからだ・・・。 『もしかして・・・翡翠さんの、お母さん・・・?』 『・・・そうらしいね。』 男が赤ん坊を抱いてやってきた。赤ん坊はよく眠っているようで、身動き一つしない。 「連れてきたぞ。」 赤ん坊をそっと横たわった女の横に置くと、女は愛しそうに赤ん坊の頬を撫でた。 「一緒にいてあげれなくてごめんね・・・。あなた、この子をお願い。逞しく育ててね。」 「・・・」 男は無言のまま頷く。女は、ほっとしたように微笑むと、共に生きることのできない我が子に言葉をかける。 「これだけはどうしても伝えておきたかったの・・・。ようこそ、私達の下へ。生まれてきてくれてありがとう。」 その女性の言葉を聞き終わるのと同時に、翡翠と花梨はまた意識が遠のいていった。 そして2人は遠のく意識の中、女性の言葉を聞いたような気がした。 ・・・あなたが健やかに育つこと、そして大事な人を見つけて生きていくこと。それが私の願いなの・・・・・・。 *** 2人は気がつくと、部屋の褥に横たわっていた。辺りの暗さは変わっていないことから、さほど時間がたっていないようだった。 「今のは・・・夢か?」 翡翠が呟いた言葉に花梨はゆっくり首を横に振る。 「違うよ。夢なんかじゃない。」 花梨は確信に近いものを感じ、翡翠に伝える。 「夢じゃないよ。お母さんが翡翠さんに伝えたかったんだよ。気持ちを。恨んでなんかいない。だってあんなに喜んでいたもの。」 「花梨。」 −そうなのだろうか?先程の出来事は、私が心が見せた夢ではないのだろうか? 考え込んだ翡翠の頬を両手で挟み、花梨は自分のほうに向けさせた。 「私の言うこと信じられません?絶対お母さんは嬉しかったんですよ。」 「・・・そうだといいね。」 「翡翠さんってば、どうしてそう言う『かたくな』なところがあるのかなぁ。わかった。それじゃあ、お母さんに直接聞いてみてください。」 「母に?」 どうやって?と不思議に思う表情が出てしまったらしい。花梨はくすっと笑った後に、真剣な眼差しで翡翠を見つめて言った。 「あのね。生命(いのち)ってずっとずっと、数え切れないくらいすごい昔に、海から生まれたんだって。そして最期にはまた海に還っていくの。」 「海へ?」 「そう。だから現世で会えなかった人も海では会えるんです。だからその時に聞いてください。」 自信たっぷりに言う花梨に、今度は翡翠がくすくすと笑いだす番だった。 「翡翠さん。私、真面目に言ってるんですよ。」 「・・・花梨。そうだね、君がそう言うと信じられるよ。」 笑いを治めて、真面目に言う翡翠の背中に花梨は腕を回して一番言いたかったことを告げる。 「翡翠さん。お誕生日おめでとう。そして、生まれてくれてありがとう。」 |
2003©水野十子/白泉社/KOEI/ えな
翡翠さん誕生日フリー作品を頂戴しました。 おめでとうに足される「生まれてくれてありがとう」の言葉が、私にとっては何とも不思議な反面、温かい言葉として心に響きました。 ひねくれ翡翠さんも、こんな素敵なお母様に育てられ続けたら、もっともっと素敵に育っていたでしょうに。 う〜〜〜ん、惜しいッッ!!! |
背景:咲維亜作