福寿

月明かりの下、翡翠は朽ちかけた屋敷の階で、紫姫の屋敷から拝借した酒を飲んでいた。
今夜はどうも一人で飲みたい気分らしい。
花梨の姿はない。
満月に近い月が荒れ果てた庭に冷たい光を投げかけている。
「昨年は色々とあったが」
と再び瓶子に口をつけてぐいっと一口飲む。
「これで私の仕事は終わりだな」
仕事。
それは八葉のことなのだろうか。
翡翠が目を細める。
その瞳にあるのは庭の、手入れもなされていない池。
風が髪を撫でる。
「…………まだ仕事は終わってない、と?」
風に乗って聞こえてきたのは声。
それは自分と同じ、いや少しばかり違う声。
「お前は私に何をしろというのだい」
「勿論、かの姫を幸せにしろと私は言いたいのだよ、翡翠」
と次の瞬間、周囲の景色ががらりと変わった。
変わったのではない。
この敷地内が別の次元に移ったのだ。
それができうるのはこの世でただ一人。
龍神。
「何を驚いているのだね」
同じ声が自分の背後から聞こえた。
ハッとして振り返ったその先には、直衣を纏った男が立っていた。
男の名は橘友雅。
その存在は翡翠も知っている。
己の先祖。
そして同じ宿命の下に生まれた先代の地の白虎。
「……………………いや」
再び目が庭へと向けられる。
友雅がその隣に座った。
優雅な所作。
全てが際立って見える。
これが自分の先祖なのだと思える瞬間。
「お前はかの姫をどうするつもりなのだね」
友雅が問う。
「手離して元の世界に帰すつもりなのかね」
「いや」
それを否定した。
「私は手離したくはない。だが神子殿がそう願えば……己の心に決着をつけて帰すよ」
「かの姫はお前の願いに応えたではないか」
そう。
花梨はあの時、翡翠の求めに応えた。
自分はこの世界に残り、翡翠とともに生きていく、ということを。
思わず翡翠は苦笑を漏らした。
「あの時は私も必死だった。だから神子殿の本当の願いを聞き入れる余裕もなかったのだよ」
「かの姫君も本気だろう」
ひょい、と友雅が翡翠の手から瓶子を取り上げた。
そして構わず飲み口に口をつける。
「昔も今も何も変わってはいない。変わったといえば……人そのものかもしれないねえ」
「……………………」
あの時から既に百年は経過している。
百年前とは都の暮らしも人も、そして何より物の考え方も違うようになってきている。
その時分は一人の帝が治めていた。
だが今は院と帝の両方が…いや、帝の力を押さえた院が支配権を握っている。
つまり対立関係になっているということだ。
そして武士が台頭してきて、のちに大勢力となった源氏と平氏がぶつかって世に大乱を招く結果となる。
それはまた後の話。
「年が明けたというのに私たちは何を話しているのかねえ」
夜空を見上げる友雅がポツリと呟く。
「時に友雅」
何か考え事をしていた翡翠が、友雅の手の内にあった瓶子を取り戻しながら尋ねた。
「なぜお前はここにいる?」
「なぜと言われてもねえ。ここは私の屋敷だから」
いや、元屋敷かな?
「…………まさかまだこの世に未練があるわけでは――――」
「それは自分で考えたまえ。私は教えるのはあまり好きではないのでね」
フフフ…といつ取り出したのか、扇の先を口元に添えながら軽く微笑む。
それを聞き流し、翡翠は夜空を見上げた。
夜空には満月に近い月、そして満天の星があった。
まるで手を伸ばせば、それに手が届くような感じで。
「なぜ数多の人間の中から私が八葉として選ばれたのだろうねえ」
翡翠の言葉に、友雅の秀麗な眉が軽くひそめられる。
「私でなくてもよかったのだろうに」
「翡翠………」
「なぜこのような七面倒くさいことに私が―――――」
呼びかけても気付かずにつらつらと文句を並べる翡翠。
思わず手を伸ばし、胸倉を掴んだ。
そして驚きに目を瞠ったその頬に拳を叩き込む。
大きな音がして、身体が階の欄干にぶつかった。
手許から瓶子がこぼれ、音を立てながら地面へと転がり落ちた。
「非道い男だねえ」
口内と口端を切ったらしい。
滴り落ちる血を手の甲で拭って、目の前に仁王立ちに立つ友雅を見上げた。
その友雅を見上げる目は冴え冴えとしていた。
鋭い視線に睨まれながらも友雅は、拳を堅く握りしめて立っている。
「非道い男だと? それはどちらだね」
言い放つ。
「お前は私ということを忘れてもらっては困る。そして八葉に選ばれたのは生まれる前からの”さだめ”だということも」
「それは曲げられない事実……真実だと?」
「お前はかの姫に会うために生まれてきた。それも”さだめ”だ」
”さだめ”だと友雅は言う。
どこが”さだめ”なのだろうと思った。
これは明らかに何者かが作為的に行なった行為だろう、と。
それを考えると無性に腹が立つ。
ゆらりと立ち上がり、腰に巻きつけてあった武器…流星錘を解いた。
「ここで私と戦うつもりかね」
まあ、それでもいいがね。
「だが、ここは次元を歪めて存在している場所。私を殺すことはできないよ。勿論、その反対も…」
「誰が次元を歪めている?」
少しばかり落ち着いた翡翠が尋ねる。
友雅は静かに首を横に振った。
わからない。
だが、この場では二人は生きていることになる。
そう。
それは、友雅が生きている時代と翡翠が生きている時代が歪められたからだ。
二人が同時に存在してはいけないのだ。
存在するということは、それ即ち”次元が歪められた場所”にいるということ。
これができうるのは考えられるところで龍神。
ではなぜ龍神は二人を会わせたのか。
「難しいことは遠慮するよ」
ゆるゆると溜息を吐き、その場に座り込むのは翡翠。
戦う気も削がれ、今は何をすべきかということを悩む。
友雅は地面に転がり落ちた瓶子を拾い上げ、振り返った。
「ひとつだけ言っておくことがある」
その言葉に、翡翠は顔を上げる。
闇夜にぼんやりと浮ぶ月を背景に、友雅の姿があった。
この時ばかりは、本当に目の前にいる男が自分の先祖なのだろうかと疑問を覚えてしまう。
翡翠は以前に三度ほど友雅と顔を合わせている。
最初は自分が生まれる前。
このときの記憶は全くといってない。
いや、消されたといった方が妥当だろうか。
二度目は、十を過ぎたばかりの時。
龍神の眷属である少年に飛ばされた先に友雅がいたのだ。
そして三度目は、二度目の記憶が戻ってから……確かあれは秋口の頃だった気がする。
「かの姫を泣かせるようなことがあれば―――」
「殺す……とでも言うのかい」
そんなことできやしないというのに。
だが友雅は笑みを浮かべてみせる。
そしてこう言ったのだ。
「こちらからでも次元は開かれるのだよ」
「四神の力もないというのに?」
いや…と否定した。
四神や龍神以外にも次元を歪ませることができる者がいる。
「まさか…………」
「そう。その”まさか”だよ」
不気味な笑みに、背筋に冷たいものが降りた。
思わずあとずさりする翡翠。
「おや? お前にも恐怖というものがあるのだねえ」
翡翠の意外な一面を見つけて、友雅はますます笑みを深くする。
可愛い子ほどいじめたくなるのは一般常識……とまではこの場合いかないが、それと同じようなものだった。
友雅は翡翠を標的と定めたようである。
「では一年に一度、お前の元を訪れてやろう」
「迷惑だ!!」
かたほうの眉をピクピクと吊り上げ声を荒げる。
だが友雅のほうは上機嫌だった。
「この………たぬき親父!!」
「たぬき親父? それはいただけないねえ」
年齢も身長も同じだというのに。
翡翠は、友雅がこの後何を言うのか想像はついていた。
恐らく―――――
「私がたぬき親父ならお前もたぬき親父だ」
と。
そもそもこの男にたてつくのは無駄なあがきであった。
自分よりも年長ぶっていながら子供のようで、数々の悪戯をされている。
そう。
自分より頭の回転がいいのだ。
つまり…ずる賢いということ。
「ま、そういうことだ。くれぐれも油断のないよう気をつけたまえ」
ポン、と瓶子を放り投げる。
それを受け取り、友雅に怪訝な目を向ける。
いや、警戒している目だ。
それを見て苦笑を漏らす。
「そう警戒するな」
「誰の責任だ」
「私…かな?」
さらりとかわすように再び視線を中空の月にやった。
「我が姫は月へと戻ってしまった………お前にはその時のような辛い思いをさせたくはないのだよ」
そう話す友雅の表情は恐らくは沈んでいたのだろう。
「………友雅…」
百年前の話は知っている。
伝承としてだが。
世の乱れを治めた神子は再び天上へと戻っていった、と。
だが………
「あかねはね…私のためにこの世界に残ってくれたよ」
あかねの名は翡翠も知っている。
あの時に顔を合わせているのだ。
そしてその後の二人のことも。
二人は結ばれ、中睦まじく暮らし……
「確か私のじい様が越智・武家橘氏の養子となったはずだが」
「他人の過去をそうむやみに口に出すものではないよ」
友雅の生涯は波乱に満ちたものだった。
それは子孫である翡翠も承知している。
ただ口に出さないのは……これを誰が聞いているかわからないからだ。
「………迎えがきたようだな」
何かの気配に気付き、友雅が庭に視線をやる。
橘の木が植えられている空間が歪んで見えた気がした。
そしてその中から見知った男が姿を現す。
「幸鷹殿」
「………天の白虎…か」
周囲をきょろきょろと見回していた当人は、屋敷の階に翡翠の姿を見つけて声を上げる。
「翡翠殿。捜しましたよ―――」
説教をたれかけて、別の男がいるのにようやく気付いた。
だがその男は翡翠に瓜二つで……
「翡翠殿。これは一体………」
「この屋敷の主だよ」
にっこりと微笑んでみせる友雅。
「しかしこの屋敷は確か………」
首を傾げ、悩み始める。
「友雅。私はこれで失礼するよ」
ようやく腰を上げ、ゆったりとした動作で階を降り、幸鷹の元へ歩き出す。
「これ以上ここにいては幸鷹殿にあらぬ不審を抱かれてしまうのでね」
その翡翠の後ろ姿を、友雅は無言のまま見送る。
二人の姿が次元のゆがみの中に消えた。
と、見送った友雅の肩をぽん、と叩く者がいた。
ゆっくりと振り返るとそこには……
「良源様」
自分の元服前に死んだはずの男がそこにいた。
そう。
ここは次元が歪んだ空間。
色々な者が来れる空間なのだ。
良源は無言のまま小さく頷いて見せた。

 

 

 

 




二人はしなびれた屋敷の敷地内にいた。
「翡翠殿。あの者は一体…」
「あの男はこの朽ち果てた屋敷の持ち主だよ」
階に腰掛けたまま、翡翠は振り返って屋敷を返り見た。
先ほどまでは、人が住んでいた感じを受けていたのに今はもうその感じすらない。
とうの昔に放棄されたような感じを受ける。
幸鷹の眉間に皺が寄る。
「ここは十年ほど前まで橘氏の――――」
言いかけ、先ほど見た男を思い出す。
翡翠に瓜二つの男。
そして―――――――――
「あれが先代というわけですか」
元々幸鷹は勘が鋭い男だった。
その勘が告げている。
翡翠の方はというと、その幸鷹に意外そうな視線を向けていた。
まさか一瞬で見抜くとは、と思ったのだろう。
「末法の時代ですから、あのような現象が起こったとしてもあまり驚きませんよ」
それよりも、と人差し指を立てて翡翠の目の前に差し出した。
「神子殿があなたを捜しておられましたよ。さっさと戻られてはいかがですか」
「神子殿が……?」
きょとんとするが、幸鷹の意図を見抜いて苦笑を漏らした。
「そうさせてもらうよ」
と立ち上がり、崩れかけた築地塀へと歩き始めた。

 

 


最初は用が終わればすぐに伊予に戻ろうと思っていた。
だが花梨と出会い、八葉として行動を共にするようになって、少しでも長くこの土地に居ようと決めたのだ。
それはただ単におもしろいことがあるような予感。
そして自分の未来が変わる予感。
果たしてその未来は変わった。
この土地に来て、色々と思い出したこともあった。
その一つが先代・地の白虎である橘友雅のこと。

 

 


翡翠は築地塀のところで一旦立ち止まり、屋敷を振り返った。
今は見るも無残な姿を晒しているが、以前は温かな空気が漂う場所だったのだ。
友雅とあかね。
二人は一体、どのような暮らしをしていたのだろう。
そしてそれを話す友雅の表情に影が生じたわけは。
もう一度会えた時、それを聞いてやろうと心に決め、築地塀を越えた…………

 

 

 

 

 

 

2003年1月17日 製作

2003©水野十子/白泉社/KOEI/ 沖継誠馬






コメント 

 地の白虎ならではの掛け合いが愉快痛快!!!!!
 今回は友雅さんに分がある様に思われたのが、私にとっては嬉しい限りオーホホホ!!( ̄▽ノ ̄§  





  







|||背景素材「トリスの市場」様|||